合言葉は’’東京へ''で再出発
「県外試合をしたことのないぼくらにとって、全国大会参加はすごく勉強になりました。 どのチームもぼくらより技術的にも体力的にも優れていました。 これを目標に二年生以下がよりいっそう励み鍛えてほしいと思います。」
玉城が謙虚にいった。
「なかでも帝京の試合はすばらしかった。 同じ高校生でありながら、あの個人技、後半まで少しも衰えないスタミナ。ただただ驚きです。」
比嘉もいう。
「でも驚いてばかりはいられません。 技術はともかく、体力なら沖縄でも鍛えられるはずです。 まだまだ甘いと思いました。 スタミナ、スピード、技術、全て帝京を見習ってやってほしいですね」
そう三年生は後輩に期待する。 それを受けて屋比久監督も。
「これからの練習には、いつも帝京のようなトップチームのプレーをアタマに描きながら練習してほしいと選手たちにミーティングで話したんです。 今までは、話だけで、その実態がつかめなかったんですが、これからは違います。 みんな、自分の目でしっかと見たんですから、もう何もいわなくてもわかってるはずです。」
と、にっこりする。
大会で得たものを、まず豊見城が血とし肉ととして、体力的にも技術的にも、中央のトップに近づけるよう努力する。 そのことによって、前原や普天間など上位校もレベルアップし、沖縄の高校全体が向上する。 そうあってこそ、はるばる沖縄から東京までやってきた意義がある、と屋比久監督は、全員に熱を込めて語った。 選手たちは深くうなずいていた。
そんな選手たちを温かな目で見守っていた玉城深二郎校長は、
「みんな寒さにめげず、一生懸命やってくれた。 沖縄から初参加という大役を担ってきたわけだが、みごと一勝をあげたのはすばらしい」
と、選手たちをたたえた。
「これでわが校を声援してくださった関係者のみなさんにも申し訳がたちます。 今年は一回戦をかちとった。 来年は二回戦までかちとろうというように、今年の反省をかてとして一歩一歩、着実に進んでいってほしいですね。」
少なくとも今年の豊見城の出場は沖縄高校チームの励みになった、と玉城校長は晴れやかな笑顔だった。
選手たちも寒さにはまいったものの、すっかり東京が気に入ってしまったようだ。 強い相手がいっぱいいて、いつでも練習試合ができるし、日本リーグや全日本のハイレベルの試合が見られる東京の高校生がうらやましい、と、口々にいっていた。
「みんな東京がよくて沖縄へ帰りたくないなんていいだしましてね」
と、玉城校長は苦笑する。
ときどきは上京して練習マッチをしたり、日本リーグを観戦したりしたいといっても、一人七万円もの費用がかかっては、そう簡単には実現できない。
だからこそ、東京へ!の思いを一年間の苦しい練習に込めて、来年また全国大会の沖縄代表になればいい、と屋比久監督はいった。
「今年は五人の三年生が最後までやってくれたが、来年は」
と、監督がいいかけたところで、十人の二年生全員が、「もちろん、最後までやりますとも!」と、元気いっぱい叫んだ。
1月6日-西が丘で、豊見城の選手たちが目標といった帝京チームが松元県ヶ丘と準々決勝を争っているころ、豊見城高チームは、日航のジェット機上で、’’来年きっとまたくるからな!’’と、東京への思いを込めて早くも心の再スタートをきっていた。
’’がんばれ豊見城! 来年またよりたくましい君たちに会いたい!’’
~写真・文章はサッカーマガジン 昭和52年2月25日号より抜粋~
END
長々となってしまいましたが、「豊見城高全国大会出場」特集はいかがでしたでしょうか?
残念ながらこの後、35年近く全国大会から遠ざかってます・・・
’’古豪豊見城’’復活を期待して、特集を終えます。
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